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文京区と大学医学部の歴史

 文京区内には実に4つもの大学医学部と附属病院があります。東京大学、順天堂大学、東京医科歯科大学、日本医科大学です。東京大学は本郷・上野、順天堂は本郷、医科歯科大は湯島、日本医科大学は千駄木にあります。

 特にJR御茶の水駅を降りて湯島方面を眺めると、競い合うように医科歯科大と順天堂大学の建物が並び立っているのが見えます。

 なぜ、こんなに狭いところに医学部と附属病院はひしめきあっているのでしょうか。それは江戸から明治にかけてこの界隈が担っていた歴史的役割と、医学の歴史に深い関係があるようです。

 文京区の歴史は東京大学の歴史でもあり、東京大学ができて周辺に出版社と印刷会社が多く集まり、夏目漱石、森鴎外など明治の文豪も多く集まりました。あまり知られていませんが、本郷は医療機器メーカーの集積地でもあり、徒歩圏内に100社以上あると言われています。

 本郷にあるユニークな名前の会社というと

「いわしや」があります。決して魚を売っているわけではなく、本業は実験用品・計測機器、病院対象の用品・道具の販売や納入をてがけています。元々は、江戸時代に漢方薬を売る御用商人として始まり、明治後は医療機械を取り扱うにようになりました。ちなみに、私の研究室(東京大学医学教育国際研究センター)にも、いわしやの担当者が定期的に御用聞きに来ています。

 文京区にある4つの医科大学に加え、明治初期の医学の歴史と深い関係のある東京慈恵会医大や慶応大学医学部の始まりも含めて、これから見ていきましょう。

 東京大学医学部の起源は、江戸幕末に遡ります。1858年(安政5年)に江戸の医者たちの私財によって設立された「神田お玉ヶ池種痘所」は、種痘(ワクチン)を行うと同時に西洋医学に志す者達が集まって学ぶ場所として運営されました。漢方医学が主流だった当時、西洋医は肩身の狭い存在でした。この種痘所の設立には、伊東玄朴、大槻俊斎らと並び、漫画家の手塚治虫の曽祖父・手塚良仙が貢献しています。

 お玉ヶ池種痘所は、その後1860年に幕府に移管された後、1861年に「西洋医学所」、1863年に「医学所」へと変遷し、明治に入ってから「医学校」、さらに「大学東校」、「東京医学校」へと発展し、やがて東京大学医学部へとつながってゆきます。

 明治初年、薩長を中心とする新政府は、蘭方医学からの転換という課題に際し、従来のイギリスとの親密な関係からイギリス医学の導入の方向に傾き、戊辰戦争中の医療活動に大きく貢献したイギリス公使館付き医官ウィリスとの間で、1カ年医学校での医学教育を行う契約を結びました。このまま行くと、やがて設立される東京大学医学部の教育は、イギリス医学が主流になるはずでしたが、新政府はその後、研究医学を重視するドイツ医学を採用することを決定し、1871年(明治4年)にはドイツ人軍医のミュラー、ホフマンが大学東校の教師として招かれました。このときドイツ医学の導入には、福沢諭吉らイギリス医学派が反対しました。大学東校を免職となったウィリスは、西郷隆盛の招きもあり鹿児島藩に受け入れられ、そこで高木兼寛(東京慈恵会医大の創立者)らに医学と英語を教授し、臨床医学を重視するイギリス医学の流れは、東京慈恵会医科大学に受け継がれました。

 当初の大学東校(医学校)の場所は、下谷御徒町にありました。ちなみに、湯島にあった大学本校(昌平坂学問所の流れを継ぎ、国学と儒学を教えていた)から東に位置しており、これが「東校」の名前の由来です。のちに病院の所在地であった神田和泉町(現在の秋葉原駅北東)に移転しました。さらにより広い校地を求めて、1870年(明治3年)上野(現在の上野恩賜公園)に土地を取得、ここに東京大学ができる予定でした。しかし大学東校教師であったオランダ人ボードウィンが、上野の自然が失われることを危惧して一帯を公園として指定することを提言。代替地として本郷本富士町の旧加賀藩邸が提供され、1876年(明治9年)東京医学校は現在の東京大学龍岡門付近に移転し、これが現在の東京大学本郷キャンパスとなったのです。

 1877年(明治10年)に東京医学校が「東京大学医学部」となった当時、卒業生は無試験で医師の開業免状を下付されました。1879年(明治12年)からは全国統一の「医師開業試験」が実施され、医師となるには西洋医学による他はなくなり、漢方医学は見捨てられることになります。この頃より全国で医学校が増えたため、医学校は甲・乙の2種に分けられ、甲種医学校の卒業生は無試験で開業免状を下付されることとなりました。甲種医学校は、修業年限が4年で、東京大学医学部の卒業生3名以上の教師が必要とされました。こうして全国の医学校の教師として、東大医学部卒業生が着任することとなります。

 わが国最初の本格的な私立医学校としてできたのが東京慈恵会医大です。1881年(明治14年)、海軍軍医であった高木兼寛が「成医会講習所」を創立しました。ここでは高木が学んだイギリス医学が教えられました。高木は、英国留学中に人道主義や博愛主義の強い影響を受け、1882年(明治15年)、戸塚文海とともに、有志共立東京病院(後の東京慈恵医院)を発足させました。同病院は皇后を総裁に迎え、経費は主に皇室資金による慈善病院でした。1891年(明治24年)に新校舎ができて独立し、その際、東京慈恵医院の附属医学校として「東京慈恵会医院医学校」に改称され、芝区愛宕町二丁目(現港区西新橋三丁目)に移転します。

 高木の学んだイギリス医学は経験科学に基づくものであり、後に述べる脚気論争のときも、北里柴三郎と同じ栄養説を唱え、細菌説を唱える森鴎外らと対立しました。

日本医科大学の沿革も古くまで遡ります。1876年(明治9年)に長谷川泰(元越後長岡藩軍医、ミュラー・ホフマンにドイツ医学を学ぶ)は、本郷元町1丁目に「済生学舎」を創設し、当時不足していた西洋医を速成することを目指しました。済生学舎は当時私立の医学校では最大であり、多数の医術開業試験合格者を送り出しました(28年間にわたりのべ9,000人の卒業生を輩出)。「済生」の言葉は、フーフェランドの「医戒」にある「済生救民」(貧しい人々を病から救うこと)からとられており、長谷川は「患者に対し済恤(さいじゅつ)の心を持って診察して下さい」と書き残しています。済生学舎は野口英世も輩出しており、野口は通常3年かかるところを約半年間の最短期間で卒業しました。1903年(明治36年)済生学舎は廃校となりますが、翌1904年には、旧済生学舎の関係者数人により「日本医学校」が設立され、これが現在の日本医科大学となりました。校地は、日本医学校となった後、1910年(明治43年)、現在の千駄木校舎に移転しています。

順天堂大学の起源は、ある意味、私立医大では最古かもしれません。幕末の1838年(天保9年)に佐藤泰然が江戸薬研堀(現在の東日本橋二丁目)で開いた「和田塾」は、1839年に緒方洪庵が大阪で開いた「適塾」と並び、西洋医学を独自の立場で教えていた私塾であり、これが1843年(天保14年)に「順天堂」と改名して千葉県佐倉へ移りました。これが現在の順天堂大学の起源です。「日新の医学、佐倉の林中より生ず」と謳われました。佐藤泰然の後を継いだ順天堂の堂主(理事長)となった佐藤尚中は、1869年(明治2年)、明治政府から大学大博士を任ぜられ大学東校(東京大学医学部の前身)の創設時の初代校長となりました。1873年(明治6年)には、佐倉から下谷練塀町九番地(現秋葉原駅付近)に「順天堂医院」を開設しました。1875年(明治8年)には湯島・本郷(現在地)に移転します。順天堂大学の初期の教師の多くは東大医学部卒の者だったこともあり、順天堂大学と東京大学医学部の関係には深いものがあるようです。

慶應義塾大学の原点は、1858年(安政5年)に福澤諭吉が開設した蘭学塾であり、1868年(慶応4年、明治元年)に「慶應義塾」と改称しました。慶應義塾は、帝大にならって最初から総合大学を目指し、複数学科をもつ専門学校となりましたが、その学科はいずれも文系であり、理系の学科はありませんでした。慶應が医学科を開設するきっかけとなったのは、北里柴三郎が東京帝大との確執で活躍の場が限られていたのをみかねて、福澤が援助の手を差し伸べたことでした。その確執とは「脚気論争」と呼ばれるものです。

 北里は1875年(明治8年)に東京医学所(現東京大学医学部)を卒業後、ドイツに留学しました。ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする東大教授・緒方正規の説に対し脚気菌ではないと批判を呈したため、緒方との絶縁こそなかったものの「恩知らず」として母校東大医学部と対立する形となってしまい、帰国後も日本での活躍が限られてしまいました。この事態を聞き及んだ福澤の援助により私立伝染病研究所が設立されることとなり、北里は初代所長となりました。1894年(明治27年)には北里はペスト菌を発見するという世界的な業績をあげています。私立伝染病研究所はその後、国に寄付され内務省管轄の国立伝染病研究所となります。さらに1914年(大正3年)、国立伝染病研究所は政府の方針により、内務省から文部省に所管を移し、東京帝国大学医科大学の一部になることになりました。これが、現在の東大医科学研究所です。北里はこの方針に反発して職を辞し、私財を投じて私立の北里研究所(現在の北里大学の母体)を設立しました。国立伝染病研究所の文部省移管については、東大医学部が裏で糸をひいたと言われています。当時、医学科の創設を目指し、トップの人材を探していた慶應義塾は、こうした事態をうけて、北里に新しい医科大学の創設を依頼しました。当時、福澤は死去していましたが、北里は「故先生の厚き知遇を得たる余が、慶應義塾大学を担任するは大いに光栄とするところ」として、この申し出を受け入れ、1917年(大正6年)、医学科予科が開設されました。1920年(大正9年)2月、大学として認可され、北里は初代医学部長、付属病院長となりました。なお、北里は医師会の発足にも貢献しており、1917年(大正6年)にそれまでばらばらだった医師会をまとめて全国規模の医師会として「大日本医師会」を誕生させ、自身が初代会長となっています。これが現在の「日本医師会」です。

「脚気論争」については、当時、東大医学部の教授だった緒方正規が、脚気菌説を唱え、それが定説となっていました。これに対し、ドイツ留学中の北里柴三郎が異議を唱えたのは前述した通りです。また、東京慈恵会医大の創立者、高木兼寛も脚気菌説には反対でした。イギリスでは全く見られなかった脚気が日本海軍に多いことに驚いた高木は、数隻の軍艦の航海記録を丹念に調べたところ、外国の港に停泊中には脚気患者がいなかったのに対し、帰港途中から患者が増えていることに気づきました。そこから高木は、脚気が白米を主食にすると発症し、パンや肉の食事を外国の港で食うと脚気は治るという食物原因説を立てました。そこで高木は、興味深い実験を行いました。従来通り白米の給食を出した軍艦と、麦を混ぜた麦飯を提供する軍艦を航海に出し比較実験したのです。その結果、白米の軍艦では150名の患者が出て23名が死亡したのに対し、麦飯の軍艦では脚気患者が皆無という劇的な結果でした。それを受けて、高木は海軍の兵食改善を行い、海軍ではほとんど脚気患者を出すことはありませんでした。

 それに対し、東大医学部卒の森林太郎(鴎外)を中心とする陸軍の軍医たちは細菌説にこだわりました。そもそも、海軍と陸軍は対立関係にあり、学理を重視するドイツ医学の陸軍と、疫学を重んじるイギリス医学の海軍との抗争という構図になっていました。東大の緒方正規は「脚気病原の細菌を発見した」という論文まで大々的に発表しました。陸軍は脚気菌説に従って白米中心の兵食を出し続けたため、多数の脚気患者を出してしまいました。陸軍軍医のトップは森鴎外であり、彼の判断ミスにより、日清・日露戦争で25万人もの陸軍兵士が脚気にかかってしまった、とも言えます。森鴎外は死ぬまで自説を曲げることはなく、北里たちを避難していたそうです。彼は、高木兼寛が東京帝国大学の推薦によって日本で最初の医学博士になったとき「麦飯博士」と揶揄したとか、1911年(明治44年)、東大農学部教授であった鈴木梅太郎が「米ぬかから抽出したオリザニン(ビタミンB1)が脚気を予防する」との論文を発表したとき「百姓学者が何を言うか。米ぬかが脚気の薬になるなら、馬の小便でも効くだろう」と言った、とも言われています。米ぬかの有効成分の化学実態が不明であったことや、ビタミンB1の成分抽出が当時難しかったことなどから、脚気論争は長く続き、陸軍の兵食改善は海軍に30年遅れました。

 最後に残った文京区の医学部は、東京医科歯科大学です。東京医科歯科大の発足は、太平洋戦争開戦により軍医の不足を補うため、東条内閣が「戦時非常措置」により医学専門学校を18校新設したことによります。1944年(昭和19年)、東京高等歯科医学校(1928年創立)には医学科が新設され「東京医学私学専門学校医学科」となりました。これが、現在の東京医科歯科大学医学部です。

 こうして見てみると、文京区は、湯島に幕府直轄の昌平坂学問所があり、明治後にその界隈に官立の医学校や大学、私立の医学校が次々と出来ていったことによってまさに「学問の街」として発展していったさまが伺えます。それに付随して、出版社、印刷業、大学関連の会社などが多くできていき、現在の本郷・湯島を中心とする大学街が出来上がっていったと言えるでしょう。

参考URL

山川紘: 172. 医科大学の系譜(1) 戦前編


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