ベルツの嘆き
エルウィン・ベルツという人をご存知でしょうか。
明治初期に東大医学部に招かれ、ドイツ医学を30年近くにわたって教授した医学者です。
日本人が西洋医学を急速に学び始めていた幕末から明治初期、スーパースターとして名前が挙がるのは、適塾を開き、日本で最初に種痘(ワクチン)を成功させた緒方洪庵、ペスト菌を発見し慶應義塾大学医学部を創立した北里柴三郎、済生学舎(現日本医科大学)に学び梅毒研究などで有名な野口英世などでしょうか。
明治初期の私立大学医学部の創立には、それぞれ壮絶なドラマがあります。
福澤諭吉の遺志に応え、慶應大学医学部創立に貢献した北里柴三郎は、東大医学部の出身でありながら、脚気論争(前回ブログを参照)を契機に東大と対立し、慶應大学医学部と北里研究所(現北里大学)を作りました。
済生学舎(現日本医科大学)を作った長谷川泰は、1903年(明治36年)に苦悩の末、済生学舎を廃校にしましたが、そのきっかけとなったのは私立医学校を狙い打ちにした「専門学校令」(私立医学校にも官立並みの実験設備と建物を求めたもの)であり、その裏には東大学閥の青山胤通、森鴎外らの画策があったと言われます。
東京大学医学部創立に際しては、明治政府によるものであったため、このようなスーパースターはいません。
しかしながら、政府がドイツ医学導入を決定した当時、東大には多くのドイツ人教師が雇われました。その一人がエルウィン・ベルツです。
東大医学部図書館の裏には、今もこのベルツとスクリバ(外科学を教えた)の銅像が2つ並んで立っています。
ベルツは20代で日本にわたり、26年間の長きにわたり、東京大学の医学生に生理学や内科学を教えました。東大を退官した後は、皇室の侍医も担当しています。
彼の日記や手紙を編集した「ベルツの日記」(岩波文庫)には、当時の西洋人から見た明治時代初期の日本の様子が詳細にわたって描写されています。
文化人類学的素養を備えていた彼は、当時の日本の状況に関する自身の分析・把握を基にして、当時の日本の状況に無理解な同僚のお雇い教師たちを批判しました。
さらに、彼は東京大学の卒業生や当時の知識人に対して、以下のように言っています。
「西洋各国から東大に派遣された教師は、しばしば誤解されました。もともと彼らは科学の樹を育てる人たるべきであり、また、そうなろうと思っていたのに彼らは科学の果実を切り売りする人として取り扱われたのでした。彼らは種をまき、その種から日本で科学の樹がひとりでに生きて大きくなるようにしようとしたのであって、その樹たるや、正しく育てられた場合、絶えず、新しい、しかもますます美しい実を結ぶものであるにもかかわらず、日本では今の科学の「成果」のみを彼らから受け取ろうとしたのであります。この最新の成果を彼らから引き継ぐだけで満足し、この成果をもたらした精神を学ぼうとしないのです」
また、東京大学の医師・医学生に対しても厳しい批判をしています。
「医学は学問であるばかりでなく、技術(アート)であるということはいくら繰り返しても多すぎることはありません。それでは一体、何のために医者は勉強するのでしょうか?
病気の人たちを治すためです。病人が医師を呼ぶのは、医師がうんと勉強をして、うんと知識があるからでなく、その知識を病人に役立つように応用してもらうためです。そしてこの応用こそ、すなわり技術なのであります」
「東大の先生方はすぐに研究室に行きたがる。しかし婦長さんを見てみなさい。自分もある患者さんを診たとき、婦長さんのほうがどれほど全部を理解して、よく問題点をつかんでいたかわからない。われわれは患者さんのそばにいて考えなければいけない」
東京大学医学部名誉教授の加賀君孝先生は、その著書で、
「このベルツの指摘は大学病院の医師の100年の病気という感じがあります」
と述べており、これを直さなければ根本的な医学教育の改革はできないと指摘しています。
たしかにこのベルツの嘆きは、彼が日本を去って110年立つ現在でも当てはまるものではないか、東大医学部の教育はこの病いを克服できるだろうかと、ベルツ像を前にするたびに思うのです。
参考文献
加我君孝:3. 東京大学医学部のルーツとその後の展開. 医の原点1 サイエンスとアート. 金原出版