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医療は不足しているのか、過剰なのか?

 医師不足問題や地方の医療過疎の問題、また「立ち去り型サボタージュ」(小松秀樹氏の命名による)といった言葉で、現在日本の医療が「不足」しているというイメージが流布していますが、はたして医療は不足しているのでしょうか。

 「医療化」の概念などから考えると分かるように、時代や社会・文化によって医療に求めるもの、医療という言葉で包含されるもの、また人々の考え方の枠組み(まなざし)などは異なってきます。

 社会構築主義の観点に立てば、健康の概念や病気の概念、人々が自分を健康だと思うか病気だと思うかは、客観的な事実によるよりも、社会的に構築されるものということになります。

 例えば、アマルティア・センが興味深い例を挙げています。

 センは、インドのケララ州とビハール州という2つの州を比較しています。ケララ州は識字率・教育レベルが高く、平均寿命が74歳と高いのに対し、ビハール州は平均余命は短く、教育レベルは低く、人々の生活は貧しい状況でした。ところが、自分を病気と思う人の割合は、ケララ州がインドで最も高く、ビハール州では低かったということです。

 では現代日本で語られている医療の不足とはどのような事態なのでしょうか。

 高知大学の佐藤純一教授は、医療不足を表すものとして、OECD各国比較における医師数の相対的不足、勤務医の過重労働問題、立ち去り型サボタージュなどの言説を例として挙げています。

 つまり、人々が求める医療が、「任意の時間と場所から簡単にアクセスでき、医療者からよく説明されて納得して受療でき、確実な効果があり、かつ安全な医療」になった結果、「医療の不足」が生じている、という言説です。

 しかし、日本の医療は過剰である、という言説も存在します。

 例えば、日本の医療アクセスは世界トップクラスであり、国民皆保険制度のため安価な費用で、少々待たされたとしても当日受診できる、と。また医療機器の充足も世界で抜きん出ており、CTやMRIの人口当たりの保有台数は世界一である、といったものです。また「薬漬け」と表現されるような過剰な薬剤投与の問題です。

 社会学的に見ると、医療の過剰は「医療化」とほぼ同義の意味で用いられます。つまり、人々の文化や習慣、価値観の中に医療や健康の概念が深く入り込み、医療に対して過剰な欲求を増幅させている状態です。医療化によって人々は自発的に病院に来るようになり、病院に行くことで健康になれると信じるようになる。そのようにすることで、医療は人々を管理する状態を維持することもできます。これは、フーコーの述べた「生-権力」であり、医療が権力として振る舞える状態とも言えるでしょう。

 このように見ていくと、医療の不足と医療の過剰という言説は、同じコインの表と裏だということが分かります。過剰にさせられているのは人々の欲求であり、それによって医療の不足が起きているのかもしれません。

 医療に起こったパラダイムシフトもその背景にあるかもしれません。

 それは「近代医療のリスク医学化」ということであり、医学が確率論的に病気をリスクとして語るようになったことです。

 例えば、病気の治療対象が個人の身体ではなく、生活習慣というライフスタイルになりました。人々の睡眠、運動、飲酒、喫煙などがリスク要因とされ、治療の対象となります。そして人々の生活習慣を矯正して「正しい」方向に変えさせる役目を担うようになった、と。これによって佐藤氏は「医学が道徳家の役目をするようになった」と述べています。病気の責任は病人本人に転嫁され、内在化されるのです。

 また、メタボリック症候群の概念や様々ながん検診などの登場により、ほぼすべての国民が病気を発症するリスクのある状態となった、と言えるでしょう。

 これは「無際限の医療化」という言葉でフーコーが懸念した状態に似ていると私は思います。

参考

松岡悦子:医療は過剰であろうかー健康・医療と現代社会. 現代社会学研究第22巻 1-15, 2009

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